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北の国旅日記

北の国旅日記

仏像の話 1

********* 仏像の話 ********

 ここ5年ほど、仏像について研究もどきを続けてきたのですが、いろいろなことがあって、研究としてはうまくいかないのかなあと思うこともあり、ホームページでエッセイ風読み物として連載しようということにしました。次々足していく予定なので内容は更新して行きます。さわりは、歴史の勉強会で発表した時の内容の冒頭です。以下はエッセイ風へ・・。



 はじめに:仏教とは何か

 仏教とは、紀元前6-5年(5-4年)頃、サーキヤ国に生まれたゴーダマ・シッダールタ(釈迦牟尼)が、初めて悟りを開いて仏陀となり広めた教えであるといわれます。簡略な内容としては、この世は苦である:四苦八苦(生老病死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦)、苦には原因がある:十二縁起(無明-行-識-名色-六入-蝕-受-愛-取-有-生-老死)、真理を知り、正しい行いをすれば苦を滅し涅槃の境地に至る:四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)→中道・八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)という教えです。教えだけを考えれば、宗教というよりは哲学のようです。
釈迦の死後、遺骨(舎利)は尊い仏陀の骨として八等分され、仏塔がたてられました(日本では五重塔にあたりますが、形状は古墳に似ています)。当初、仏陀の似姿としての仏像は作られませんでした。仏塔への装飾彫刻として仏伝図が彫られ、象徴(菩提樹・足跡・法輪他)から仏陀像へと変化し、釈迦のみではない多様な仏像が彫られ、礼拝対象としての単独の仏像が生まれるようになったのですが、長い年月がかかりました。
釈迦の教えはのちに経典と言う形にまとめらましたが(第一結集、第二結集)、やがて教団内で根本分裂が起こり、所謂、上座部仏教・大乗仏教に別れてしまいました。
釈迦の伝記は、生前の物語だけでなく、本生譚という釈迦として生まれる前の輪廻転生の物語として、捨身飼虎など他の生き物のために自らの命を与え功徳を積んだといった物語が語られ、造形されました。

仏教の伝来~

日本に伝来した仏教は、インドから直接伝わったのではなく、中国、朝鮮半島を経由した、言うなれば電報ゲームによって変化した仏教でした。
中国では仏教伝来後、仏典の漢訳が行われ(有名な漢訳者では鳩摩羅什や玄奘三蔵がいます)、中国の国内情勢にあった偽経も多く作られました。経典の内容が全て理解できなくとも、この世で初めて悟りを開いた仏陀の「力」を頼めば如意宝珠(世界の全てが思い通りになる珠)を得たも同じという思想もあったようです。旧来の価値観を廃して、国王、皇帝の統治を人々に知らしめる為に仏教の信仰を広める面もあっつたので、仏教を受け入れるかどうかがリトマス試験紙のようになり、統治を受ける側は喜んで、もしくは仕方なく信仰を受け入れました。大々的に仏像や寺院を建立し、仏教という名目で様々な文化の発展がうながされました。それらを受け、朝鮮半島では中国との絆の強化、国力の発展のため、仏教という最新文化の輸入が行われ、やがて日本へも伝えられることになったのです。
日本に伝えられた仏教は、釈迦の教えを求めるものというよりも、仏陀の「力」をたのむ面が強化された仏教であり、また仏教に伴う最新文化の輸入、中国・朝鮮半島との外交において必要な共通語(思想)としての受容でもありました。仏教受容によって日本は仏教文化圏、漢字文化圏の一員となったともいえるでしょう。仏教公伝は五三八年説、五五二年説他がありますが、日本書紀には百済の聖明王から金銅仏像・幡蓋・経論が贈られたとあります。受容に際して、崇仏派の蘇我氏、廃仏派の物部氏との争いは有名で、日本書紀では仏像に礼拝するかどうかが重要なこととなっており、最初に仏像ありきという記述になっています。やがて日本の仏教は聖徳太子はじめ歴代天皇にも受容され発展して行きましたが、管轄は冶部省・玄蕃寮といった今でいう外務省、僧侶は国家公務員、寺院は国家や強大な氏族によって建てられた研究機関(総合大学)であったのです。中心は経典の書写、内容の理解(訓読)、注釈書の作成、仏像の建立、僧侶の育成、国家行事としての仏事のほか、仏教という名目で、医療・土木技術・建築技術など様々な文化が輸入されました。仏事としては「金光明最勝王経」などの鎮護国家経典の転読が行われる最勝会や、御斎会、維摩会、仁王会と言った読経や仏教講座、施餓鬼会(盂蘭盆会)、放生会、祈雨もあり、現在のいわゆる葬式はありませんでした(天皇・上皇などの追善法要というものはありましたが)。


********* ひと休み **********
ここで一息。私と仏教の関係についてのお話をします。仏像が好きということは、この人、よっぽど篤い信仰のある人か、変な宗教にかぶれていたりするんじゃないかと思われるかもしれないので、ちょこっと説明します。うちの実家は父方が曹洞宗、母方が浄土真宗です。姉が死んだ時、曹洞宗のお葬式をしたので、私も死んだら曹洞宗で葬って欲しいと思っています。うちの母は昔、門徒だということを誇りにしていて、たいして信仰的生活をしているわけでもないのに、子どもの頃、儀式を受けて門徒になったから「自分は救われている」といっていました。姉がぐれて家出をしたりした時も、母は自分が悪いとか反省するといったことは全くなく、自分は正しい、悪いのは運命だと思っていたよう。ひたすら拝み屋を回って、占いとか祈祷をしてもらっていました。でも、そんなことで何も解決しなかった。母はその後も、手かざしの宗教に何百万円も使ったり、拝み屋に出入りしたりしていましたが、姉が癌になって、いくら祈っても治らない上、死んでしまったということで目が覚めたようです。つまりというか、私は仏教を含む宗教は好きだけど、特定の信仰は持っていません。実家の本山の総持寺で買った仏画にお菓子を供えたり、般若心経を読んだりはするし、何もしていない人よりは信仰的生活を送っている部分はあるけれど。宗教は自分が豊かになったり、幸せになるために必要で、信仰を持つことで「自分は救われている」と他の人に高圧的になったり、反省をしない人になるのだったら必要ないし、まして人を殺したり、金品を巻き上げるようなことに関わるのなら必要ないと思っています。仏像も大好きだし、研究したいと思ったくらいですから、仏像の悪口をいう人をみつけると逆上しないとはいえないのですが・・好きな仏像を壊したり盗んだりする人を見つけたら、人殺しとなる可能性も無くはないかも・・でも、研究しようと思ったとき、仏教に仏像は必要なのかということも考えていて、本当の仏教にはたぶん仏像は必要ないのかも、ということもわかっています。ただ、日本に生まれて生きて、歴史や自分の体に流れている血を感じると、仏像は必要なものだと実感できるのです。その仏像が必要だと思う自分や日本について研究したかったという訳です。
********** ひと休み終わり *********


仏像がきた時

仏像が最初に日本のどこに何時来たかはわかっていません。もちろん、日本で作ったのではなく、輸入で入ってきています。中国・朝鮮半島からの渡来人が仏教信仰をしていて、持って来たのかもしれないし、交易の場で・・たとえば珍しいお土産品として、不思議なかたちの金属工芸品として、金属の重さで貨幣の替わりに、飾り物のお人形として、新物好きな人のお取り寄せ品として、取り扱われていたかも知れません。最初は銅鏡に仏像様のものが刻まれ始めたといわれていて、日本人としては天照大神のような神を映すつもりで鏡を取り寄せたのに、その鏡に仏像が刻まれていたために、最初から神仏習合だよ、ということもあったのかも。鏡ではない人の形で作られた古い仏像は、たとえば国立東京博物館に、法隆寺で保存されていたものが沢山展示されています。これは法隆寺で作ったとか集めたというよりも、近隣で持っていた方々が法隆寺に寄贈されたとのこと。ほとんどか小さくて素朴な銅製仏像です。たぶん、輸入された仏像です。日本は中国・朝鮮半島から海で隔たれた島国なので、大きな金属製品や大きな石製品は交易上持ってくるのが無理だったのでしょう。輸入にこだわって見てみると、ある時期から、仏像が木製に変わったのも、船が沈んだ時、海底にこぼれ落ちてしまう金属や石よりも、浮かび上がる木の方が、残る可能性が高かったからともいえると思います。

仏像がきた頃のことを調べるには

 日本の古代の仏像について調べた頃、古い記録は少なくて、絶望的な気持ちになりました。日本書紀、続日本紀、風土記、日本霊異記、寧楽遺文、造像銘記集成、寺社縁起、図版、論文ほかほか、読んでも、膝を打ってわかったと思えるようなものはありませんでした。特に、日本書紀は絶望的。私は修士論文をかかえて中国へ日本語教師で赴任してしまったので、中国の宿舎で絶望で泣きました。信用できる記録は何もない。神話的に歪曲されたいろいろ、公的にはそうしたいのだろうけど真実は違うだろうに、史料が少なくて何もいえない。わからないわからないわからない。歴史を勉強したいと思ったら、真実ではないにしても、確からしさという面では少しでも真実に近づきたいと思うもので、高い壁、深い溝を前にして、ただ泣くしかない。古いことは、少ない史料と、後は自分の想像力と勘で、確からしい話を構築するしかないのか・・・。それは歴史学ではないのではないか、と。
 で、今、こうしてエッセイ風読み物として、これを書いているわけです。

日本人の基層信仰

学部時代、丸山真男の「歴史意識の古層」という話を『日本文化のかくれた形』という文庫で読んで、なんだこれはと思い、丸山真男の東大時代の講義録を買い、ちくま学芸文庫『忠誠と反逆』にある「歴史意識の古層」を読んで、とても面白かった。なる・つぎ・いきほひ、といった丸山先生の思想には、そのとおり!とは思わなかったけれど、日本人には「古層」とか「重低音」と表現されるようなものがあるという話は、そのとおりじゃないかと思いました。河合隼雄先生も日本文化論を沢山書いていらして、日本人に特有の・・例えば中空構造という特質があるとおっしゃってらして、お前ごときが勘違いもはなはだしいといわれたとしても、私も日本人の特質なるものを何か見つけたいと思ったのでした。もし、わからなくても面白いじゃないかと。学部の卒業論文は、仏像とか吉祥天についてやりたいといって却下されたので、「鬼」について調べました。そして大学院で仏像。私の入っていたゼミでは説話を分析して歴史を調べるということをしていたので、歴史書と説話を半々で読んでいくような形でした。もちろん私は、基本的には歴史は変わると思っています。たとえ「古層」や「重低音」があったとしても、「新層」や「主題」や「旋律」は時代によって変わる。現代の価値観で大切だと思うものが、昔の時代には存在すらしないこともある、逆もまたしかり。現代に生きている私が、夕べ鬼を見た、殺されそうになったとは真面目にいえない。でも、鬼のような形相をした若者が沢山の人を殺傷した事件はついこないだもありました。人間、もしくは日本人は、見えない何かに拘束されている。それは繰り返し重低音として響いている・・なんか神秘的でドキドキします。
それで、しかたないけど、「日本書紀」です。「古事記」でもいいけど仏教は出てこないし、手ごろな史料は他にありません。日本書紀の冒頭、天が先にできて、地が後でできて、神が生まれた・・葦の芽が神となって国常立尊と申し上げる・・。なぜ、葦の芽は葦の芽ではなく、名前がつくのでしょうか。「葦の芽の神」ではいけないでしょうか。ここに私は、植物への擬人化を感じるのです。植物も動物も風も光もこの世のありとあらゆることが、そのままの形のものではなく、人の形を想定している。穀霊は米の形ではなく、人の形(の神)を想定している。ただ、こんな形といわないだけで。日本には半獣の神のような形がなくて、変身はするけれど全身人間の形のイメージなのではないか。(鬼は半獣のイメージですが、日本の皇統系の神の範疇に入れない)今でも関西では、豆のことを「お豆さん」という。「お豆さん」は栄養があって偉いねとか。「お豆さん」はただ豆の形なのか、豆の形のなかに人の形をイメージしていないのか。そのイメージは、平面的なものではなくわき上がってくる・・もり上がってくるような立体的なイメージではないのか。それは、先に仏像ありきでしょうか、仏像が来た後植えつけられた人の形のイメージなのか、それとも日本人の心に仏像的なものがもともとセットしてあったということでしょうか。人の形と思っていたけれど、恐れ多くて造形できなかったものが、仏像というものが「あり」とわかって、解禁になったのか。仏像だってモノなので、神秘も何もないモノと思われても仕方がないのに、神秘を感じる、微笑を感じる、微笑を感じるように作る。「重低音」を感じるのです

つづき

日本書紀では人の神様がほとんどだけれど、風土記になると様相は違います。風土記は断片的ということもあり、そんなに研究している人はいないようなのですが、日本書紀よりも当時のリアルがわかる感じです。日本霊異記は中国の説話の翻訳があったり、唱導(仏教に入信させるように話を作って語る)の部分があって、無意識的に語られたものかどうか疑ってしまう部分もありますが、風土記は割と素朴に書かれて素朴に読める気がします。風土記の中で、天皇系列の神や朝廷の人々は、各地で井戸を掘って綺麗な水を提供し、地域で祀っていたカミ(ほとんどか蛇などの動物系)と戦って平定したりしていきます。時々出てくる夜刀神というカミは角の生えた蛇で、地域から追い出されたりします。神社にかけられるしめ縄は二匹の蛇が絡まることをあらわすともいって、結界の中に蛇を閉じ込めているようでもあります。半獣神のようなカミでは葦原志挙乎命というお名前が出てくるのですが、別名はオオクニヌシノミコト。大学時代、鬼について調べていて、もしかして、葦原志挙乎命はオニの原型かとか思って調べてみましたが、確証はえられなかった。尚且つ私は、オニ=熊説というのを展開しようとしたのだけれど、挫折してしまった。志挙乎という名前は時に醜男とも書かれます。シは下のシ、コはコッコのコ、大地の子という意味にも取れます。お相撲さんの四股は足を踏ん張って大地を踏みしめる。アジアの島に伝わる神話に、天が落ちないように大地を踏みしめて(天を)支える大男と言う話があったはずですが、そんな雰囲気を感じます。熊っぽいかなあって。熊というか羆の漢字は橿原考古学研究所所蔵の木簡に既にあります。古くからある言葉です。オニは隠(オン)が母音添加してオニと読むようになったというのが通説ですが、熊・羆は古い読みはユウなのに、クマと呼ぶのは隠語として隈(クマ:隅の暗いところ)であったり、アイヌ(縄文ともいえるか・・)のカミ:カムイの母音転換で、古いカミ=オニ=クマなのではないかと思ったのですが。簡単に証明できたら、ずっと前に誰かがやっていたでしょう。学部時代のレポートの一部を書きますね。

「おに」(隠~鬼)と「くま」(隈~熊)
 資料収集の下読みとして網野善彦氏の新書を読んでいたところ、一遍上人絵伝の中に「蝶」が描かれていないのは「蝶」には「魂」といった意味があって、わざと描かなかったのではないか、といった話があった。描かれているものよりも、描かれていいはずのものが描かれていないことに注目すべきである、という指摘であった。鬼について、描かれていいはずなのに描かれていないものは何か、考えて行き当たったものが「熊」だった。金太郎では熊にまたがりお馬の稽古というシーンも出てくるのが、全般的に説話の中に「熊」の登場するシーンは極端に少ない。今昔物語集では、仏法部で2話(うち動物の熊は1話)のみである。その仏法部の巻12-40「金峯山の薊獄の良算持経者の話」では、良算持経者の修行中に、はじめは鬼神が来て惑わそうとするが、後には尊んで鬼神ばかりか「熊」「狐」「毒蛇」等も来て供養するようになる~というものである。この熊以外の狐と蛇は説話の常連である。狐は仏法部で5話、世俗部で16話、蛇は仏法部で毒蛇7話、蛇12話、世俗部で蛇10話(+3話)に登場する。勿論、神として祀られる動物である。しかし、熊は神として祀られているのか・・アイヌの神ではあるがヤマトではメジャーな神ではない。有名なのは地名として「熊野」であり、熊そのものではない。それはヤマトに熊が生息していないからであろうか、答えはNOである。最近も京都の東山にツキノワグマが出没し射殺されている。「言霊」のことをいえば、熊は最も名前を呼ぶことを恐れられた生き物である。マタギに代表される熊狩りの漁師は山オヤジなどと違う名前で熊を称する。また、日本語は母音交代・母音添加を行う言葉であり、日本国語大辞典他によると「くま」の語源は朝鮮語「kom」から変化、神(アイヌ語では熊は神でありカムイ)の変化によるなどの説があるが、「k・m」との組み合わせでいくつかの同じ傾向の言葉が見られる。1)神、加茂、米など、神道に関する宗教色。2)高麗・漢・韓、久米、蜘蛛、など外国・外国人に関すること。3)金、釜、鎌などの金属系などが見られる。詳細については日本語史と照らし合わせて熟考が必要であるが、傾向のある印象である。最後に、熊と鬼の似ている点(イメージ)を比較したい。
鬼:1本・2本の角がある。目がぎらぎらと光る。口が大きく、牙があり、指には鋭い爪がある。古い記録(説話)では漆を塗ったような漆黒の肌。身長が高く、9尺ともいわれる。山と里の境界に現れ、猟奇殺人を行うこともある。古い記述では黄泉の国にいた。
熊:頭頂に2つの耳がある。夜間は目が光る。口が大きく、牙があり、指には鋭い爪がある。漆黒の毛皮。京都周辺では首に月の輪がある。ツキノワグマは頭胴長1.2~1.7m立てば2m以上。山にいるが食糧不足の際に里に下りる。肉食もする。巣篭もりは穴であり、洞穴にいることもある。
鬼の全てが熊のイメージとはいえないが類似点は多いように考える。

つづき

 まるでお笑いのような鬼=熊説ですが、考えていた頃はかなり真剣に資料を探したのです・・九州の地名で熊・隈・隅のつくところが結構あって、地図で探したこともありました。でも、古代については全部同じ。実証は無理。言葉も変わってしまっているので、今の音声で考えても違う場合があるし。何か他の突破口があれば、もうちょっと奥まで調べられたかもしれません。
 お隣の国、韓国の神話では、天の神様が地上に降りてきた時、熊と虎が人にして欲しいと頼んできたので、葱やニンニクなどを食べないで洞穴に何日も篭っていられたら人にしてあげようと約束したのですが、虎は耐えられず挫折、熊はいいつけを守ったので人になれて、天の神様と結婚して人間たちの祖先になったというお話があります。これをそのまま熊が人間の祖先だという神話を持った人々が、日本に渡来して、密かに熊信仰をしていたと考えることもできます。また、トーテムが熊である部族が、密かに韓国にも日本にも居たと考えても面白いかも。アイヌの人々も含めて。
 あと、日本人の信仰について、気になることは3つくらいあります。ひとつは神仙思想。飛鳥で亀便器のような・・噴水公園遺跡が見つかったのは、何かと。日本書紀には無い。ひとつは魏志倭人伝の卑弥呼の鬼道が、儒教的なもので、儒教を詳しく勉強したら何かがわかるかも・・ということ。加地伸行先生の『沈黙の宗教 儒教』という本があって、中国人の信仰には儒教が根強くあって、死んだら天に昇る魂と地に沈む魄があり(生きているとは魂魄が一致している状態)死んだ人間の頭蓋骨を孫に被せて魂を呼び出す祭祀をする招魂宗教が儒教・・みたいな。招魂というのが、日本にも根強くあって、平安時代に誰か死んだら家の屋根に上って魂フリをするとか・・儀礼的に残っているのに、信仰の形跡があまりない。後々、お墓とか卒塔婆とか位牌が出てくると、何かわかんないけど仏教・儒教習合になってしまうのだけれど。儒教は「ある」と思います。ひとつは勿論というか、考古学的な遺跡にある信仰について。仏像に近いものでは、縄文のビーナス系のものもあるし。国立民俗学博物館で見た、木の札を刻んで、人の形にして、招魂の寄り代にしたり、護符としてお守りにしたり、という事もあったらしい。長屋王遺跡から出土した木で刻んだ人の形は呪詛のための寄り代といわれるけど、呪詛として使うだけではない、人の形のものへの信仰が気になります。

つづき

 熊が気になってしまった方への追加情報です。熊は動物として文献に出てくることが少ないようですが、いくつか出てくる箇所があります。追儺(ついな)という年末に行われる鬼やらい行事の装束に熊の毛皮が使われています。あと、馬に乗るときの鞍に敷く毛皮として熊の毛皮が使われていて、東北に遠征した阿倍比羅夫が大量の羆の毛皮をお土産に持ってきた話などもあります。熊の漢字は、熊(アナグマ、ツキノワグマ)と羆(ヒグマ)があり、羆は今は東北・北海道にしかいませんが、南限がどこだったか・・古い時代は今と違ったかもしれません。また、阿倍比羅夫だけでなく、羆の毛皮や小羆をお土産に持ってくる人が居て、朝廷や貴族のミニ動物園で小羆を飼っているうちに気がつくと2m超になり、逃げて人を襲ったり、意図的に殺人鬼として養成して政敵を殺すようにしていた可能性もあります。文献で熊・羆を探す時、「罷(まかる)」という漢字に惑わされることがあります。昔の文献は手書きだし、コピーも手書きで写していくので漢字の書き間違いや省略が多いです。鬼も、本当に鬼なのか鬼のつく漢字「魂」「魄」や「魑」「魅」「魍」「魎」「魔」「魁」など他の漢字の書き間違い、省略なのかもしれない。解析は難しいです。

 仏像にもどりましょう。

 仏像の研究をなさっている方は沢山居らっしゃいます。今は仏像ブームというくらい興味を持たれているし、大学や大学院で仏像を研究なさってらっしゃらない方でも、私なんかよりはるかに仏像の知識を持っていらっしゃる方も大勢居ると思います。研究もいろいろなジャンルでされていて、何がなんだか・・という感じもあります。仏像は、美術品でもあるし、仏教の法具でもあるし、信仰対象でもあり、歴史的遺物でもある。歴史としてみれば、世界史、アジア史、日本史、美術史、国際交流史、文化史ほか何でも研究できてしまう。私は文化史で見てみたかった。文化史というジャンルも光の当て方でいろいろな見方があり、説明が面倒です。私の思い描いていた形は、ひとつのトピック(:鬼でも仏像でも)について、歴史のある時点でのそのトピックの効果と変遷について分析したいというものでした。鬼については今昔物語集を中心に平安時代にどのような効果があってそれが鎌倉にかけて変遷したかという内容でした。仏像は本当は一生かけて通史的に勉強したかったので、まずは日本伝来時からと始めたのですが、史料の面できつかった。それで、次は史料の豊富な院政期~鎌倉期をやりたいといって罵倒されたという感じです。確かに、私のようなクズのようなヤツが、勉強するのが楽しくてたまらない、ワクワク、ドキドキとかいって、レベルの低いお遊びのようなものを書いて来てニコニコしていたら、ぶっ殺してやりたいと思う人がほとんどなのでしょう。もう、疲れちゃった。
 仏像について、初めて本を読んでみたいということでしたら、梅原猛先生の『仏像のこころ』(集英社文庫1987年)が素晴らしいです。梅原先生は河合先生の先生といもいえる方で、一度、小樽の児童文学の鼎談に来てくださって、とても楽しかった。やんちゃ坊主のような、おちゃめなところのある先生で、河合先生が鼎談をまとめるのに冷や汗かいている感じでした。京都にある国際日本文化研究センターを立ち上げたし、思想から、仏教、仏像、日本文化論、歌舞伎の脚本、エッセイ、ほかほか沢山の著作をお書きになってらっしゃるエンターティナーです。たぶん私がいくら頑張っても、梅原先生の仏像論の足元にも及ばないでしょう。梅原先生、『古寺巡礼』の和辻哲郎を批判して登場して、今は和辻の住んでいたおうちにお住まいです。ただ、梅原先生はエンターティナーなので、日本史の論文を書くときに引用するのが難しい。面白すぎるというか、日本史的には厳しい内容が含まれていて、一個引用すると、日本史的には厳しいことを全部肯定してしまう恐れも出てきたりして。研究することに迷って迷ってやっと書いたことが、案外梅原先生の分析とそっくりということも無くは無いのかもと思うのですが。難しい。楽しく読むには素晴らしい著作がいっぱいです。
あと、西村公朝先生の『運慶 仏像彫刻の革命』(とんぼの本/新潮社:熊田由美子先生と共著1997年)も素晴らしい。西村先生は仏像修復をされていてお坊さんでもあって、著作も沢山あります。仏像の見方が、一般の人とは違っていて、すごくためになる。
ほか、研究という面では美術史が進んでいて沢山の研究論文があるし、日本史や文化史でもぽつぽつと仏像を視野に入れた研究があります。長くなるのでとりあえず今回はこの辺で。

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 ここの所調べていた鎌倉時代のことを書こうと思っていたのですが、流れからいってもやはり仏像が日本へ伝来してからしばらくのことを書いていくほうがいいようなので、そうします。実証できないことなので、トンデモ本に出てくるのと大差ないかもしれない内容です。前出の鬼も、伝来当初の仏像についても、勉強していたのは結構前になるのでうろ覚えで嘘もあると思います。

仏像のつくり方。

 もし、今、あなたが仏像を作りたいと思ったら、どうしたらよいでしょう。例えば、インターネットのホームページを探して、好きな仏像の形をカタログから選んで発注すると、お金を払って数日待てば、希望の仏像が送られてきます。また、大きな仏像を発注する場合は、工房へ連絡を取ってオーダーメイドで作ってもらうと、高いけれど希望通りの仏像が手に入る・・。そのこと自体に関して、私は昔も今も変わっていないと思います。ただ、「信仰」と「仏像建立の功徳」いうことが入ると、少しばかり様相は違います。たぶん、仏像が日本に伝来してしばらくは、既に伝来した仏像とそっくりなものを、オーダーしたり、作りおきされた既製品(もしくは輸入品)を購入することも可能だったでしょう。仏像を持ってさえいればよい。小さいものを個人で所有すればよい。祈りの対象として置いておけばよい。そういった形で信仰され、残っている仏像もあると思います。でも、いつからか仏像は公的なものになってしまいました。そういった点では『日本書紀』に出てくる日本伝来の記事は、本当ではないけれど真実はあるのだと思います。日本では古来、地域に根ざしたそこここの神様が居たので、外来の神様は特に必要なかった。渡来人などは故郷で信仰していた風習や神様の像を持ってきて信仰していたかもしれない。それを統一的に「国」としてまとめようと考えた時、中国の取った方式が仏教を使うということだったわけで、日本でも同じように仏教を使って「国」のしくみをととのえることを考えたのだと思います。仏教を宗教や哲学として広めるのはとても難しいです。お経は中国語で書かれていて、読むのも理解するのも並大抵ではなかったでしょう。もともと「国」側の人々も理解できていたかも怪しい。仏教は国を統一するという教えではないわけですし。でも、仏像は作れます。仏像さえ作れば、祀れば、仏教の信仰をした、「国」のいうことを肯定したということになります。祈りの形や習俗が何であっても、仏像に祈るということでそれは仏教になります。「国」の上層部はまた、中国のいうことを肯定し、仏教文化圏、漢字文化圏の一員として恩恵に与ることができます。
 『日本書紀』の記事は、仏教に関してはぐちゃぐちゃです。最初に公伝した仏像は金属の像であり、蘇我氏と物部氏の争いがあって、寺は焼かれ仏像は難波に流したと描かれていますが、そのすぐ後に、茅渟の海底から上がった神木で仏像を作ったとあります。公伝の仏像はダメで神木の仏像はあってもいいのでしょうか。しかもそれまで天皇が仏教へ帰依することを固辞していたのにもかかわらず、天皇の特命で刻まれたとある上、作るといって作れてしまうそんな技術はだれが持っていたのでしょう。この神木の仏像の話は後からの挿話であることが見え見えで、その後の仏教に関する記述にも不問になっています。公伝の仏像を考えるとこれは異常です。仏像は新羅からも百済からも再び贈られてきますし、技術者や僧もやってきます。拒否していません。蘇我氏と物部氏の争いの方が、挿話であり、より強い意味でのフィクションということでしょうか。稲目・尾輿の争いの後、馬子・守屋の代でも蘇我氏・物部氏は崇仏・廃仏で争います。結局、天皇の病気平癒を仏像に祈るということで、崇仏派の勝利となっていきます。仏像に関しては、たたりによる病気について繰り返し描かれています。仏像はたたりません。仏教の教え自体がたたるという種類のものを持っていません。日本的な解釈の仏教ということになります。ここで起こる病気は、たぶん外来の病気です。アメリカ大陸にヨーロッパ人が渡った時、インディアンの方たちの人口が激減したのは、ヨーロッパ人が持ってきた新しい病気でした。日本でも渡来人が持ってきた病気は古来日本の病気とは違っていたのでしょう。それを治すには外来の神に祈るしかない。その際、「仏像を作りますので仏の力で病気を治してください」と願掛けをしたようです。一族を挙げての願いは氏族仏教なるものの始まりになります。病気を治すために、患っている人の身長や体重と同じ大きさの仏像を作ろうとする。また、更に大きな仏像を作れば、仏様は喜んで病気を治してくださる、綺麗に荘厳すれば仏様は喜んで病気を治してくださる。仏像の身の回りの世話をする下働きをつければ、仏様は更に喜んでくださる。古代からの日本の考え方、先祖や八百万の神様も一緒にして、人の形の神様として祈れば、一石二鳥でしょう。仏像は万能の薬になります。仏像に祈ったのに、亡くなってしまった人の霊は仏像に留まって私たちを守ってくださいます。六道に転生するのも涅槃に至って浄土へ行くのも、とりあえずはエンバーミングされた死体のような仏像を経由して行きます。仏像は仏(例えば釈迦)の似姿であるべきで、例えば聖徳太子に似せて作るのはおかしいです。でも、似姿だというのであれば、純粋な意味での「仏像」であるのかどうかはわからなくなります。

仏像のつくり方 2  肖像なのか象徴なのか

 仏像を作る際、古いやり方では、まず発願します。「叶えて欲しい願いがあるので仏像をお作りします」と宣言することです。そして、仏像を作る為に必要な資金を集めます。資金を提供した人は、その仏像に結縁(縁結び)することになります。仏がもたらす功徳を分かち合う仲間になるということです。仏教に入信することであまねく功徳を受ける(弱い功徳)のではなく、仏像クラブに加入するような形で、個別に結縁した仏像が与えてくれる功徳(強い功徳)に与るということになります。この仏像建立の功徳は経典でも保証されているので、たぶん現在に至るまで続いています。さて、仏像を実際に作る段になると、作り手が必要になります。初めの頃は朝鮮や中国から渡来した技術者が作成に携わりました。金属工芸、木彫、彫塑、ほか技術の種類は違います。鞍作鳥は金属工芸、山口大口費は木彫技術者でしょうか。中国では技術者の地位は低いです。下手をすると奴隷です。でも、日本ではそうでなかった。古くから作者の名前がわかる状態にあるということも外国の状況から見れば違います。平安時代になると僧綱(僧侶の公的位階)に名前が入るようにもなります。対外的に、高い技術で作られた美しい仏像を持つ国になるということは、科学技術の進んだ先進国になるということです。金属で人の形を創ること、難しい荘厳具を付加し、塗金し、銘を刻むことは最高技術の結集された科学でした。その形は、既にあった仏像をコピーする方法(拡大模刻も縮小模刻もあったでしょう)、粉本(設計図)を取り寄せて、もしくは新たに設計図を作成して作る方法ほか、いろいろあったと思います。そこで、再び、その仏像は、肖像なのか象徴なのかが問題になってきます。
仏像は基本的には象徴であるべきです。似せるのであれば、当然、実在した釈迦やそのお弟子さんの姿を。でも、亡くなってから長い年月がたって、写真も似姿の図像も無かった場合、似姿がわからないのであれば、もう象徴化せざるおえません。英語で仏像を表す「buddhist  image(仏と像の直訳/仏のイメージ)」という言葉がそれをいい当てていると思います。如来であれば三十二相の人を超えた好相をもちながらの人の形をあらわし、顔はインド風の相貌が似つかわしいでしょう。ところが、その象徴であるはずの仏像に、肖像性が混入してきます。最初は日本でではなく、中国でです。例えば北魏様式の服装をしている法隆寺の釈迦三尊像の釈迦像は、中国から伝わった情報によって作られていて、インドの服装ではない。中国では歴代皇帝を輪廻転生した釈迦仏、現皇帝を弥勒仏と見る信仰がありました。中国の皇帝は世襲制ではありません。時代が変換する時、それまでの政権を力で粉砕して、武力に長けた新しい者が皇帝位につきます。その時、困るのは自分の来歴、出自が皇帝としてふさわしいかどうかです。仏教の輪廻転生の思想は、血としての生まれ変わりではなく魂の生まれ変わりによって、その人の現在を約束します。例え奴隷階級の出自であっても、魂は皇帝の生まれ変わり、もしくは仏や偉人の生まれ変わりであれば、皇帝という立場を保障する礎になります。皇帝の命により仏教を信仰し、皇帝の顔に似た仏像を拝むのであれば、それは仏教に偽した皇帝崇拝となります。中国では、本当に仏教を信仰した時代もあったとは思いますが、多かれ少なかれ、皇帝崇拝を潜ませていたのではないでしょうか。そういった肖像性が日本に来た時、日本ではそれを継承したでしょうか。たぶん、初期の釈迦仏や弥勒仏は、中国皇帝をかたどっていたとしても、それをそのまま中国に敬意を表して受容したと思います。ただ次に自分たちで仏像を作り始めた時、中国皇帝の似姿として仏像を作るのか、それとも日本の天皇の似姿を作るのか、仏陀の似姿を作るのか、作り方は分かれます。作られたものによって信仰する心のあり方も変わってしまいますから、それはそれで重要です。まあ、中国皇帝に謁見した日本人が沢山居たか、もしくは中国皇帝の顔を、誰でも見れたのかというのは疑問があり、中国皇帝の似姿としての仏像を日本オリジナルで作るのは厳しそうです。やはり外来の仏像に似た姿や、中国人的な風貌が良いように感じます。つまり、あまりオリジナルではなく、中国渡来の仏像に似て居る仏像が問題の無い姿であったでしょう。さて、似姿を作るに際して、他にも肖像性が問題になる作り方がいくつかあります。まず、先の病気になった人を治す為に、その病人の似姿を作るのかということ。病気を治してくださいと祈る先は超越性をもった神であるべきで、病気の人では無いと思われます。では、病気で死んでしまった人であればどうでしょうか。亡くなった人の冥福を祈って、追善の為に残された遺族が作るのであれば、浄土への転生を祈念して仏となったその人とそっくりなの像を作るのはありえるか。でも、超越性を持った神様が自分の似姿ではない人の似姿を拝むのを見たとしたら、バチを当てたりしないでしょうか。難しそうです。では、聖徳太子の似姿といわれる仏像はどうでしょうか。私は聖徳太子の似姿というのも、いろいろ問題があるように思っています。まず、本人が存命中に自分の似姿の仏像を作るのはどうか。もし自分で自分の似姿を作ったとしたら、「和をもって尊しとなす」といった思想は無く、織田信長のような自分を神と崇めろというタイプの人になると思います。そんなことをするのは中国皇帝くらいです。死んだ後に遺族が似姿を作ったとしたら・・。聖徳太子は浄土に転生することを約束されたような人です。追善(生きている時の善行が不足していて地獄に落ちる可能性があるので遺族が本人に代わって善行をなして浄土転生を祈念する)の為に像造するのは疑問があります。すでに浄土に転生しているだろう菩薩ないし如来である太子に、追慕の祈りをかける為の像造のであれば可能ですが。直近の遺族にそこまでの神格化が可能なのか。例えば、自分の父は救世観音であったので、父にそっくりな仏像を像造しよう・・現代的な感覚では厳しい。信仰対象ではなく、ただの銅像・・校庭の二宮尊徳であればできるかもしれません。検討すべきことが多すぎて、やはり後年、聖徳太子像として作られたものではない・・飛鳥時代に作られた仏像は、聖徳太子そっくりなはずといわれるそのとおりとはいえません。後年の人がそのように予想して伝説化したのであれば絶対否定はできませんが。他に、誰かに似た像造ということでは、写実的モデル問題があります。作り手が何かの造形をする時、必ず最初はデッサンが必要であり、粉本(下絵・設計図的なイメージ)無しで直接作ることができる人はまず居ません。居たとしたら、その人は神様か沢山の像造をして見なくてもできるという熟練技術者です。見本となる渡来仏像が無いとすれば、粉本、それが無ければ、何がしかのモデルデッサンが必要です。そのモデルは誰か。工房で雇われている弟子か、僧侶か、天皇か、天皇の妻や子供か・・。作成上のモデルとして聖徳太子がかかわり、後になって太子の似姿伝説になったというケースは考えられるか。あるかもしれない。でも、誰が作成上のモデルであったのかは、秘密のはずです。神ではないものを神のモデルにするのですから。そのモデルとなった人は、バチが当たっても良い人ということになります。特に伝来当初の病気平癒が一番の関心であった頃、バチとは即、死ですから、病気平癒にならなくなってしまう。当時の現在、居る人をモデルにするのは厳しいです。でも、モデルはいたでしょう。例えば、少し時代は下りますが、写実的な東大寺戒壇院の四天王は四人とも違う表情ですが同じ顔です。そういう仏像は多いです。





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